「神様に呼ばれている」というのは傲慢か?素直さと謙虚さと……抜けていった先にあるもの

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先日、チャネリングの特別レッスンでいただいた質問。

 

”「神社に呼ばれた!」という表現をする方について

それは傲慢だ!という評価をする方もいれば、
全くそうでない方もいらっしゃる

これって、どうなんでしょうね〜”

っていうね

 

あちらから見ればそうだし、
こちらから見るとそうでもないし、、、、

 

という

答えがあるようで、定まらない違和感。

一度くらいは感じた方
いらっしゃるのではないでしょうか??

 

スピリチュアルな話題だと、
多いかもしれませんが、

会社などでもよくある話です。

 

お客さん視点でやって欲しいことと
企業視点でやりたいこと、やれないこと

 

こういう

どちらかを立たせようとすると
どちらも立たず

どっちもあるよね〜という

ピタッとした答えの出ない違和感。

 

結局、答えは

発する側と
受取手側

各々の中にあるから
定まらないわけですが

 

この時、私がお話させていただいたのは
こんな話。

 

「私」という自我(エゴ、フィルター)の状態から観る

・インスピレーションや言葉で、神社の名前が浮かんだ。
・友達や知り合い、記事などでよく目にするといったシンクロ体験が多い。
・占い師さんや、スピリっチャルな人から言われた。など

これらが

→無意識の奥にある(アカシックレコードでもいいけど…)
神社の情報が意識に上がった。

 

ということなのですが

 

こうなると、出来事(神社に行った。行ってよかった。)は、
向こうからやって来たと感じやすいものなんですよね〜。

だから、呼ばれた。となる。

 

でも

 

「私」という自我ではない
大いなる「わたし」という根源の存在から観る

・神社に行くという結果はすでにあるもの。
・3次元の時間という制限の中で、最善のタイミングで今出て来た情報。
・全ては自分が仕組んでいるとも言える。など

 

こんな風に感じられ、

 

→無意識と完全につながっている状態や
意識と無意識の統合がなされている状態だと、
すでに情報があるということが腑に落ちてわかるんですよね。

→自分は神そのものである。神もまた自分である。とか

→現世は幻想であり、自作自演であるということが、
しっかりと地に足がついた状態で、楽しく粛々と演じられて行く。

 

こうなると、
全ては自分が創造している。
っていうのが深いところで腑に落ちている状態となるので

呼ばれた。ともいえるけど、
能動的にそれを起こした。という感覚も同時にあるわけです。

 

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二元性(二極化)の視点で観ていると
どっちかの一方通行なのですが、

一元性(全体性)の視点で観ると
どっちも同時に起きている。

人の成長というか、
スピリチュアル的な発達段階において

二元性から一元性のプロセスでは
このような違和感を感じる時があるものだと思います。

 

でー
こーゆーと、今の自分はどんな感じなのか?
あの人はどうか?

なんて考えることもあるかも知れません。

 

ここで、腑に落ち度を判断をするための基準を立てるなら

 
「到達度」「深奥度」になります。

 

どこまで、根源まで体験、体感しているのか。
どこまで、肉体の素粒子レベルまで落ちているのか。
(エネルギーセンターがどこまで開いているか)

 

二元性の方も、一元性の方も
言葉にしたら

「神社に呼ばれた」ってなるのですが、

それは言葉では、その表現が伝えやすいからなんですよね〜。

 

そして、

発する側と受け取り側が
双方に全体性の感覚をもって過ごしていると、

同じ言葉でも

言葉以上の深い真意を汲み取って
同じレベルで共感し

ジワるものが流れる(笑)

 

発する側が全体性の世界をもって話していても、
受け取り側が、二元性の世界でジャッジしていると

何も伝わらないのです。

こういう時、二元性の受け取り側は、
思考(マインド)で理解しようとして

 
何も得られない。ということが起きます。

 
(話はずれちゃうけど、こんなことからも教育とか教養ってものすごく大事だな〜って個人的には思うんですよね〜。)

 

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ただね。注意もあって、

スピリチュアルが好きな人の中で
(特に仏教などの東洋系が好きな方w)

全体性の視点、観察者視点ばっかりになってしまうと

 

どうせ、起きるべきことは起きているしな〜
みんな苦労だって、病気だって、魂的にはやりたくてやっているんだよ〜

 

といって、それだけになってしまうのは、

行き過ぎです(笑)

ある意味、めちゃくちゃ明晰なんだけど
人としてのバランスが崩れることがあります。

 

人生やりたいようにできてるのさ!
みんな誰でもやりたいことをやっているのさ!

そんなもんさ、フンっ!みたいな嘲笑的になるのは、

やさぐれてるだけで、それは逃避です。

(多くの方はどこかのタイミングで、どちらも体験すると思います。
どこかで、とどまる方もいらっしゃる。
それは決して、良し悪しや優劣では分けられないのです。)

 

個人的には、

3次元の地球に肉体を持って生きている。
という選択をしているのですから、

喜怒哀楽、全部を感じて、味わってこその

人生。と感じています。

 

シンクロ体験や不思議体験を

 
不思議〜!すごーい!私たち宇宙意識ね!
いつも龍が出てきてくるよの〜♪
私ったら、神社に呼ばれてる〜!?

みたいに、キャピキャピしてるのも

私は「いいな〜」って感じます^^

 

 

私は、

自分の中で、パズルがハマった感じの時とか、
お友達がそういう体験で、とっても嬉しそうな時とか

キャピー!っとする時もあるので、
それはそれで楽しい(笑)

 

ただ、個人的には

深い部分で、共感や共鳴して
言葉がなくても、お互いに通じてジワる方が

本質的だし
相手の世界も自分の世界も
共に大事にできて

嬉しいし、感謝というか、、、、

好きなのですよ。

(だからエリクソン催眠をやっているんですけどね。効果的なセッションをしていても深い部分すぎて、時にしがないな〜と思うこともありますがww)

 
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観察者視点も大事
味わう演者の視点も大事

 

どっちもあって

「今ここを生きる」ができると思うんです。

 

途中で書いた

「到達度」「深奥度」

 

これって、悟ったとか覚醒したとか
薄っぺらい言葉の意味じゃなくて

どこまで
全身全霊を世界に、他者に開いて
その瞬間に存在出来ているか

存在し続けているか

という意味で書いています。

 

どんな出来事や縁起にも
わたしという存在としてあり続ける。

私の中では、「生きる」ことなんですね。

 

 

 

ただ、生きるだけでいい。

人生に絶望した時に、腑に落ちた言葉。

でも、その生きることがどれほど難しいことか。。。。

 

生きることを感じた時、
真摯に向き合おうとした時、

自分の中にある「欲求」と向き合うことが必要になるな〜と思いました。

 

「欲」は良くないとされがちですが、

思考で生み出した「欲」ではなく
根源から湧いてくる「欲」を知る。

 

人によって、

生きていけるお金はもうあるから「欲」がない。
人生悟ったから…もう年だから…「欲」がない。

 

これは、一見
賢者とか聖人君子のようで良さそうですが

そうじゃなかった。。。。。

いや、それでもいいんです。自分で決めることだから。。。。

 

ただ、ここで言いたいのは

私自身が、似たような感じになって
さて、どう生きていこうって真摯に向き合った時に

 

そうじゃない!!!って強く感じたのですよ!!!!

 

命から湧いてくる声、振動

これを蔑ろにしていたことに気づいたのです。

 
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そして、こればかりは
テキストでは伝えられない
深奥な部分です。

 

そして、目の前のことを
真摯に感じきりつつ、
新しい世界を受け入れていかなければ、

なんやかんや言って、
現状維持なのです。

 
優しくって、繊細な人ほど
自分の「欲」を見ないというか、、、、
わからなくなってしまうんですよね。

わっかんないよ〜、なくてもいいんじゃない?って避けてしまいたくなる。。。

 

やりたいことなんてない。
やりたいことはわからない。

 

荒い言葉にしたら
理想やマインドで言い訳して避けている。

避けたり、逃げたりするのが悪いのではなく、

 
「本当の自分を見ないようにしている」ことが、

 

それこそが、
自分を結果的に傷つけているんですよ!!!

 

それは、とっても悲しいことなんです、、、

そこに出会った時、
心のそこから、

謝罪と感謝が湧いてきました。

 

そんな体験もあり、
自分だけではなくて、他者の本質をみさせていただくようになって

余計に、インナーチャイルドとか本質(魂の声)を
本人が、わからないことへの悲しさが

より深く感じるようになりました。

本人が見えなくなっている
本音の根っこを見つめるお手伝いしたい!
魂の声を届けたい!救出したい!

悲しみを減らしたい!っていうのが、私の欲でもあります。

 

 

避けることは、

護っているようで
護ってないことがあります。
自分を見て、知って、感じて、

その上で逃げるとか、立ち止まるのは良いんです。
傷つかないんです。
でも、思考で理解しようとすると、迷路に迷います。

この違いが体感でわかってくると、
もうやるべきことが、用意されてやってくるようになるのですね。

 

(それは、人によるけど50歳くらいなのではないかな〜。50にして天命を知る!みたいなw)

 

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過去のやり方、概念を手放す、覆す
そんな時代が来て、

多くの方が、この縁にいらっしゃいます。

 

「欲」を持て!と言われても
「欲」が解らない!!!

ってなると思います。

 

特に、スピリチュアルとかリーディングとか
修行、トレーニングで自我のフィルターを緩めよ!手放せ!

ってやって来た方ほど

そういうものだと思います。

 

やりたいことがわからない。というのも同じ

 

で〜

最初の話とつながるのですが、

結局

「欲」をよくよく手放してから、本当の「欲」がいよいよわかると思います。

 

濁った池や泉の水を抜いて、
ゴミをとって、なにしてかにして、、、、

初めて、源泉の場所がわかるし見えてくる。

そうすると、

新しい綺麗に水をいれたら、
こんな水草を入れたい!
こんな魚がいたら自然の循環が良くなる!
こんな池にしたら、みんなが喜ぶ!

って見えてくるし、「やりたい!」から「やること」になるんですよね。

 

 

「到達度」「深奥度」は、測れません。

けれど、やりきって、諦めて、シンプルになった方に出会ったら
わかると思います。

でも、それがわかるには
自分の「到達度」「深奥度」も関係してくるので、

判断しようとするよりも、
結局自分を高めていくことに集中する方が、建設的だと私は思います。

 

 

素晴らしい職人が作ったもの、
歴史的価値、

それは、それをやっている人にしか解らないのと似ています。

感性と教養を磨いて初めて
その物の価値が見えてくる。

 

自分の価値は、本人しか磨けないし、解らないのです。

自分のレベルに応じて、
他者の価値、世界の価値がわかってくる。
だからね。

 

楽しく、五感を磨きましょう〜♪♪
好きなことをやりましょう〜♪♪
貪欲にそれを求めましょう〜♪♪
人生楽しみましょう〜♪♪

 

それは、卑しいことでもカッコ悪いことでもないんです。

 

そんな、感覚を高める講座が

スピリチュアルヒプノセラピー講座
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